選評

辻原 登
穂村 弘
角田 光代
文部科学省初等中等教育局主任視学官
清原 洋一
全国高等学校長協会
角 順二

 優しく肩を組んで
辻原 登 辻原 登

 『ゼノフォビアと難民問題』(武田萌)。
 ゼノフォビア(xenophobia)という言葉をはじめて知った。武田さんの文章は鋭く私の無知を突いて、しかし、突きながら、優しく肩を組んで、私たちの中に根深いゼノフォビアからの脱却の道をさし示してくれる。それは、読書の体験を、彼女の旅(留学)の経験に思慮深く重ねる柔軟な文章によるものだ。
 『見えない魔物との付き合い方』(渡会由貴)。
 渡会さんは聴覚障害者である。「KY語」という言葉を知っているだろうか、という冒頭の問いかけの文章はただの問いかけではない。「歯が立たず、ほぼ絶対的な支配力を持つ空気はまさに魔物である」。「KY語」で人を裁き、おとしめようとする無知で残酷で鈍感な人々と風潮への静かな抗議の文である。
 『「二番目の悪者」が笑うこの世界』(國岡志帆)。
 二番目の悪者は、「軽い足取り」で私達の間を駆け巡り、その裏に隠し持った強大な力でこの世界を一変させようとしている。だからこそ、彼らに対抗し、戦う人になるには本を読む人間、つまり静かに思考する人間になることが必要なのだと訴えかけてくる。
 『地図を歩く』(川岸夕夏)。
 地図を歩くには、「現実」が必要だ。地図はいっぷう変わった文章なのだ。文章が文章だけで成り立たないように、地図は地図だけで存在しない。それを読む人間と、地図が現わした現実の街や山や川がなければならない。川岸さんの文章は、その発見の喜びを伝えて余すところがない。
 『山に魅せられて』(松下ひかり)。
 松下さんはいつも「父と二人、歩くことに集中する」。しかし、新田次郎の『孤高の人』は同じ山行でも、たった一人で孤独の限界まで突きつめる。「山そのものではなく、登山という行為の中に」何かを求める。小説中の人物と、松下さんが山行から得たものは明らかに違う。山の美しさや雄大さか、それとも孤独の深遠さか。松下さんはその岐路に立って考える。いつか父と二人でなく、一人で登る時……。答えは出るだろうか。そのことへの恐れと期待の余韻を残して文章は終わる。
 『言葉を超える「お話」』(西岡美空)。
 本当に伝えたいことを伝えるにはどんな方法がいいのだろうか。声の言葉、文章の言葉。文章の言葉ならまず手紙を書くという方法、あるいは「お話(物語)」にして差し出す方法。どの方法が一番でも二番でもない。声の言葉、手紙の言葉、「お話」の言葉。言葉、つまり「表現」を西岡さんは、発達障害の妹さんと共に見つけていきたいと結ぶ。
 『私の在り方』(公文琴音)。
 「自分でも分からない本当の自分の存在。きっとそれが分かってしまうと人は弱くなるのだろう」「十七歳にしてようやく自分を理解した時にとてつもなくさびしい気持ちになった。今まで自分の中で保ってきた何かがいっきに崩れ落ちた音がした」「自己をあらわす場所がない人はさびしい人だ。だがとても強い人だ」。
 これらはみなすぐれて反語的意味合いにみちたニーチェ的箴言だ。しかも公文さん独自のものだ。
 『「死」によっても失われないもの』(増田悠斗)。
 死とは何か、と考えることは、じつは生について思いをめぐらせることだということを、増田さんは読書体験そのものよりも、お母さんの卵焼きから会得する。一篇の小説よりも、曾祖母から伝わる「甘い卵焼き」のほうが食べごたえだけでなく読みごたえがあるのだ。一冊の本よりも学ぶべきことが多いのは曾祖母の卵焼きであり、彼女の人生なのだ。なぜなら曾祖母の人生こそ、かけがえのない一冊の本なのだから。



 見える問題と見えない問題
穂村 弘 穂村 弘

 『ゼノフォビアと難民問題』では、現在の世界における大きな問題を取り上げている。留学後の再読時には、「以前は気にも留めなかった言葉」が強く意識されるようになったという。また、それについて作者は「個人としてではなく、まとめてよそ者として扱われる」と自分自身の言葉でまとめている。留学と読書という二つの体験が思考によって血肉化されているようだ。最後に民族間の意識の壁が乗り越えられた例として、「ストリートサッカーチーム」のエピソードが語られていて考えさせられる。世界の全員が参加できるサッカーチームは、どうしたら作れるのだろう。
 『「二番目の悪者」が笑うこの世界』も、やはり現在の大問題に着目している。難民問題との違いは、「二番目の悪者」は目に見え難い、という点だ。しかし、それは「この世界に甚大な影響を与えている」のだ。作者は自身の体験を通して、これを可視化しようとする。その結果、自分自身の中にもその影を見出す。この展開がスリリングだ。
 『見えない魔物との付き合い方』もまた、タイトルにあるように見えない問題を扱っている。そして、「感音性難聴」という事情をもつ作者にとって、「空気」という日本特有の「見えない魔物」は一層高い壁なのだ。「わかった?」と聞かれた時に、「ついいつもの微笑みで答えてしまった」というくだりに胸を衝かれた。無意識に魔物に従っている我々は、自らの曖昧な「微笑み」の意味を、そんな風に鋭く意識化することはできない。
 『地図を歩く』は新鮮な一篇だった。読書体験記は、現実の悩み→その悩みに関わるテーマの読書→気づき→成長、という流れをとることが多い。そのパターンを見事に崩しているのだ。人生に引きつけすぎない楽しみのための読書体験、しかも「地図」というところが恰好いい。
 『山に魅せられて』では、そのリズミカルな文体に惹かれた。「青い雲海と空の境が徐々に白み始めた。朝日だ」「あの人も、この鼓動を聞いただろうか」「八月十一日、カレンダーの数字は赤い。祝日『山の日』である」といった文章には、音読したくなるような魅力がある。
 『言葉を超える「お話」』では、本の内容以上に、その形式に意識を向けていることに注目した。「重松清はこの『お話』を少年と同じく吃音で悩む一人の少年に向けて書いたとしている」、だが、「なぜ、『お話』という形式をとったのだろう」。そこから翻って、「なぜ、妹は手紙という形式をとったのだろうか」と自ら省みるところが素晴らしい。特別な眼差しを感じる。
 『私の在り方』では、他者の言葉によって照らし出される自己像への考察が印象的だった。「悩みとかなさそう」という周囲の人々の言葉、また「自己をあらわにせよ」というニーチェの言葉、それらから「本当の自分」を見つめ直そうとする姿に惹かれた。
 『「死」によっても失われないもの』は、「私は母の卵焼きが大好きだ」という一文から始まる。この日常的で素朴な実感の意味が、一冊の読書を通して深く問い直されるところがいい。そして、それはやがて「私」の核となるはずの死生観にまで結びついてゆく。



 読んで考える、考えて読む
角田 光代 角田 光代

 武田萌さんが『路上のストライカー』を読み、『ゼノフォビアと難民問題』で取り上げた主題は非常に今日的な問題である。この本との出会い、自身が住む沖縄での見聞、短期留学先での体験、そうしたものが、移民や差別といった大きな問題を、武田さん個人に、より身近なものにしたのだろうと思う。それだけこの文章には説得力がある。ここにまとめたよりもっと多くを武田さんは考えているだろうし、今後も考えていくことになるだろう。そのことをとても頼もしいと思う。
 渡会由貴さんの『見えない魔物との付き合い方』にはどきりとさせられた。私も無意識に他人に合わせてしまうことがあるからだ。障がいが有る無しにかかわらず、また、年齢や経験の如何にかかわらず、だれしも身に覚えのある思いと、その思いの持つ危険性をみごとにとらえた文章である。
 『「二番目の悪者」が笑うこの世界』は根っこのない悪意を巧みに描いている。情報を鵜呑みにしない、自分の頭で考えることを放棄しない、という國岡志帆さんの文章はじつにキリリとして力強い。
 川岸夕夏さんの『地図を歩く』は、抜群にすぐれた文章力で、地図を介した世界との向き合い方を描いている。地名ひとつが過去を生き生きと見せ、ちょっとした「ずれ」が歴史を立ち上がらせる。立体的な地図の読み方が印象的だ。 
 松下ひかりさんの『山に魅せられて』は、読んでいる私にも広々とした空や木々のにおい、山と対峙する自分のちいささを味わわせてくれる。本を読み、何か感じとることも、山を歩き、何か考えることも、どちらもたったひとりでやらねばならないことだ。本にも山にも松下さんの思考の足跡が残っている。
 『言葉を超える「お話」』のなかで、西岡美空さんは、小説のあらすじそのものではなく、なぜ「ほんとうに伝えたいこと」を、そのままではなく、お話に託すのか、と考える点がユニークで印象深い。さらりと書いてあるように見えるが、深い考察だと思う。
 公文琴音さんの『私の在り方』はとても印象に残った。読書体験記では多くの方が、読書を通じて自分の欠点に気づき、その欠点を克服しようとする。そう書くことが、暗黙のルールのようになっているのは否めない。でも公文さんは、ニーチェと会話するように読書していくなかで、あなたの欠点は欠点ではないと教えられる。悩みがなさそうと言われながら悩みを持つひとりの少女が、ニーチェという味方をひとり得たことで強くなるさまが描かれていて小気味いい。
 増田悠斗さんは『「死」によっても失われないもの』で、死の後のことを考えている。人が死んだ後に残せるもの。創作物や功績を残す人もいるだろう、でも、もっとささやかなものも残り、受け継がれていくと書く。料理の味や、ちょっとした言葉、ささやかな人の営みが、消えずに残っていくことを指摘する。読書を通して死について考えることで、私たち人間に連綿と受け継がれている何かについて、増田さんは考えている。
 読書は、人を成長させるばかりではないし、難題を克服させてくれるわけでもない。書物はあなたの武器にはならない。もしかしてあなたの味方もしないかもしれない。成長のための、前を向くための、強くなるための、つまり「ためになる」読書ではない、無駄かもしれないけれど多様な読書に出会ってほしいと思います。




 心を磨き、豊かな人生を!
 文部科学省初等中等教育局主任視学官 清原 洋一

 今年の最終審査に残った十五作品、いずれも読書を通して深く考え、心や行動が様々に変化している様子が描かれています。そればかりでなく、それらを素直に上手に表現していて、心にすんなりと入ってくるすばらしい作品ばかりでした。
 文部科学大臣賞に輝いた武田萌さんの作品は、難民問題について綴られた本を留学を終えた後に再度読み返し、考え方や気持ちが変化した様子を巧みに描いています。留学中に難民の子と友達になるという経験、滞在先の隣町で移民の子どもたちが殺されるという事件などとも重ね合わせ、問題の背景にある差別の意識や偏見について真剣に考えています。本を読んで心に鋭く突き刺さったフレーズ、日本や沖縄での差別の問題などを交えながら、その根本的な原因は相互の不理解にあり、解決の糸口は一人の人間として見ることではないか。グローバル化が一層進む社会を生きていく上での決意を示したと感じる作品です。
 全国高等学校長協会賞に輝いた二人も、すばらしいものです。渡会由貴さんの作品は、日本人の空気を敏感に察知する特性の中でどのように生きるかを考えさせられるものです。「空気」という見えない魔物の中で、必死で話の内容を捉えようとするあまり誤った判断をしてしまう自分、一方で、相手の誠意に応えようと曖昧な微笑みを浮かべてしまう自分、本を読み考えたことを率直に表現しています。その場の空気に従うべきか否かを判断し、時には空気を乱してでも自分の判断に従う勇気が必要だ。その言葉にも迫力が感じられます。
 また、國岡志帆さんの作品も、実に思慮深いものがあります。『二番目の悪者』という本から、嫌がらせを受けた二度の経験と結び付けて考えただけでなく、いじめ問題やネット社会がかかえる問題についても思考をめぐらしています。最初の悪意をもった悪者も問題ではあるが、何気なく陥れられてしまう「二番目の悪者」は次々と伝染し、大きな嫌がらせへと発展してしまう。同様の罪を、もしかしたら自分自身も犯しているのではないか。多くの人も犯しているのではないか。「らしいよ。」で広がる噂、ネット社会での問題点やその本質について考え、見事に表現しています。
 一ツ橋文芸教育振興会賞に輝いた五作品も、心に自然に響いてきました。短い言葉ですが、私が感じたことについて示したいと思います。
 川岸夕夏さん、地図はただ行き先を示すという役割を果たすだけではなく、自分の歩みを振り返り考える時を与え、明日への手がかりにもなる。その心情が、文章に素直に表現されています。
 松下ひかりさん、『孤高の人』という本との出会い、それと父との登山を対比させながら考え感じたことを見事に表現しています。そして自分もやがては一人で歩めるようになる。そんな決意が伝わってきます。
 西岡美空さん、本の中での吃音の少年との出会いから、思いを伝えることの大切さについて様々な角度から考えています。それだけでなく、自分にしかできない「表現」を妹とともに見つけていくという意志が伝わってきます。
 公文琴音さん、一冊の本との出会いから自分自身と正面から向き合い、自分の在り方についての気付きを素直に表現しています。また、本との出会いを劇的に描いていたこともすばらしいと思います。
 増田悠斗さん、「死」によって失ってしまうものと失われないものがあることを、曾祖母から受け継がれた母の作る卵焼きと結び付けながら表現しています。そして、今後の生き方への決意が伝わってきます。
 これからも読書を通して深く考え、心を磨き、豊かな人生を送ることを願っています。



 体験と深化
 全国高等学校長協会 角 順二

 『ゼノフォビアと難民問題』(武田萌)は、『路上のストライカー』の読書体験記で、実際に自分もスウェーデン留学中に難民の男の子と友達となったが、自分の中に難民をよそ者と認識し、嫌悪感をもっている意識があることに気づき、そこから難民問題について考えを深めていく過程が書かれている。「違う民族同士が共に生きていくのはそんなに難しいことなのだろうか」「根本的な原因は相互の不理解なのではないだろうか」と問題提起をしながら、本の内容と自分の体験から、「様々な人種が共生するための糸口」を提示していく。そして、重要なことは、「『難民』というくくりで彼らを見」ることから、難民を「一人の人間として見る」ことへの「変化」だと指摘をしていくが、それが自己の体験と本の中で描かれている「事実」を根拠にして導き出されていることもあり、読む人も十分納得できる内容となっている。
 『見えない魔物との付き合い方』(渡会由貴)は、『「空気」の研究』を読んで、それまで意識したことがなかったこと、日本人が「空気」を大切にしていることに気づかされ、その「空気」に従って誤った行動をした自己の経験等についても直視しながら、「空気はまさに魔物である」「流されるばかりでは、取り返しのつかない失敗を招く」と警鐘を鳴らしている。そして、そうならないためには「時には空気を乱してでも自分の判断に従う勇気」を持たなければならないが、それは、決して「教えられて身につくものではない」等、「生きる力」を身に着け、高めていくうえでも重要な指摘となっていることも評価したい。
 『「二番目の悪者」が笑うこの世界』(國岡志帆)は、『二番目の悪者』を読んで、その本で描かれていることと自己の体験等の現実という二つの世界を重ね合わせるようにしながら、「日常生活に隠された闇」があることを、自分を含めたすべての人が課題としてとらえることの必要性や重要性等を指摘していく。そして、「『考えない、行動しない、という罪』は私達が無意識の内に犯すことが可能な罪」、本当に悪いのは「真の悪人」だが、本当に怖いのは、「直接、真実を確かめようともせず」、それに便乗する多勢である「二番目の悪者」。しかも、彼らの「存在と罪の意識は真の悪者の影に隠れ、摑みにくい」ので、「自らが気付き、改めようとする機会も摑みにくい」等と、昔も今も変わらない「闇」の姿を明らかにしていく。だから、それに気づいた者から「二番目の悪者」にならないよう行動することが重要だと締めくくったのだと思う。
 『地図を歩く』(川岸夕夏)からは、『地図の中の札幌』という地図を片手に、実際に街を歩いたり、自分の思い出等と対話したりすることの楽しさ、発見の喜び、郷土への愛着のようなものがよく伝わってきた。『山に魅せられて』(松下ひかり)は、『孤高の人』の主人公、加藤文太郎と自分を重ね合わせたり、対比させたりしながら、「孤独」について考えを深めていく過程が、「自立」「責任」「成長」等といった人の生き方と関連付けながら爽やかに書かれていた。『言葉を超える「お話」』(西岡美空)は、『きよしこ』を読んで一度「妹の『きよしこ』に私がなる」と考えるが、そのことに疑問を持ち、考えを深めた結果、初めの自分の考えを否定することにはなるが、本当に大切なことは何かに気づくという構成・展開が効果的だった。『私の在り方』(公文琴音)は、『超訳 ニーチェの言葉Ⅱ』を読んで、自分の生き方の転機を迎えるという衝撃的な精神のドラマのような内容であったのが強く印象に残った。『「死」によっても失われないもの』(増田悠斗)は、『夏の庭―The Friends―』を読んで、「死」という高校生があまり考えることのない難しいテーマに挑戦し、死は「すべての終わり」ではないという認識を持つに至るまで考えを深めたところを評価したい。


 
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