第36回全国高校生読書体験記コンクール
【一ツ橋文芸教育振興会賞】
 

 地図を歩く
北海道札幌南高等学校 2年  川岸 夕夏

 はじまりは二〇一四年八月、ちょっとした好奇心がきっかけだった。文庫判の市内地図に、自分の足跡を記そうと思いついた。徒歩もしくは自転車で通った道を、ペンでなぞる。当時からよく散歩していたから、いつもどこを歩いているのか気になっていた。記録することで何か見えてくるかもしれないという小さな期待もあった。それから二年あまりが過ぎ、学校や家の周り、中心部は一面がすっかり真っ青になった。今では出かけるときには常に地図を持ち、帰ってからルートを確認するまでがひとつの楽しみである。地図はただ行き先を示すガイドではない。自分が通った道を振り返り懐かしむ、そしてこれからどこへ行こうか想像を膨らませる。
 そうして地図を眺める機会が増えるうちに、私が身の周りの風景に無頓着だったことに気がついた。「この道はどうして曲がっているのだろう。」「ここはなぜ番地が飛んだのだろう。」学校の図書館の本棚を眺めていると、この本の背表紙が目に飛びこんできた。『地図の中の札幌』。
 地図がページを覆う。いちいち目を凝らしてみたくなるから、ページを進めるにもやけに時間がかかった。読めば読むほどに、私の意識はだんだんと線と線の交差、黒い地名の連続へと吸いこまれて、あたかも街を散策しているようだった。
 地図は、決して整然としていない。碁盤の目と称される札幌においても、だ。条丁目制が市全体に均一に広がるとは限らない。歪みが各地に生まれている。
 この本では、その多くの歪みについて由来を説明している。たとえば、中心部から少し離れたところに「山鼻」という地区がある。市電がごとごと走る音と、架線が張り巡らされた低い空が無性に好きで、よく散歩している。ここを地図で見ると、不思議なことに中心部に敷かれた真四角の区切りから、わずかにずれている。まるでここだけ首を傾げて見ているかのように、縦にも横にも同じ角度だけ違う。なのに無理をして中心部の条丁目制を敷こうとするから、至る所で食い違いが起こる。西十八丁目の隣が西二十丁目、ということや、ある一つの街区だけが妙に大きかったり小さかったりする。これには理由があった。山鼻地区は、「山鼻村」として中心部の「本府」とは別に栄えた過去がある。互いに干渉せずに発展してきたのだろう。その結果、合併する際にずれが生じてしまった。条丁目制を敷こうとした先人の苦労が偲ばれる。
 川がうねうねと曲がっている、はたまたひたすら直線に流れていること、あるいは線路が湾曲して敷かれていることにも、今住んでいる地名にも、必ず理由がある。ぼんやり歩くだけでは知り得なかった過去を、地図で辿る。
 街が一夜にして突然生まれることなどない。人が携わり自然が手を貸した歴史が、そこにはある。私の目を通して平面の地図が徐々に立体となって、ただの記号や線の交差が明確な形となり、浮き上がってくる。歴史と共に、その地の思い出、風景、音、匂いや手触りがありありと感じられるようになってくる。やさしい息づかいによって、五感を突き動かされる。
 地図には私自身の足跡も含まれている。「ここの道なんか、中学校のときに毎日往復していた。冬の早朝、澄んだ空気が体に染みて気持ちよかった──」「地名に惹かれて行ったはいいけれど、坂道ばかりでしんどかった。でも、くねくねした道は味わいがあってよかった──」青くなぞられた線の一つひとつにも、ストーリーがある。
 札幌という街そのものが、私の中の思い出と深く結びついているのだ。少し歩けば畑の田舎めいた匂いにだだっ広い空があり、少し地下鉄に乗れば賑やかな街が待っている。地図によって、私の札幌への愛情がいつでも確かめられる。地図を仲立ちにして、今の私と札幌の街とが時を超えてつながり対話している。
 自分がどうもやるせなくて、やることなすこと全てが翻って虚しくなるときがある。私はまだ十七歳でしかなくて、将来どう歩いていけばよいのか、考えても考えても途方に暮れるときがある。そういうとき、私は自分の足で地を踏む感覚を味わいたくて、外に出る。そして自分で見た景色を頭に焼きつけて、地図を読む。次第に、迷いにだって意味があるという気になってくる。糸の絡まりにだって必ず価値がある。地図と同じだ。
 私は地図によって、まだちょっとしか姿が見えず全体像が摑めない世界との調和をはかっている。歪みを見つけてぐっと目の前が開ける瞬間がある。地図は、私の歩みを確かめさせ、時の流れを与え、そして明日への手がかりになる。私は、時間の積み重ねの上に生きている。



体験書籍 
『地図の中の札幌』堀 淳一・著 


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