第36回全国高校生読書体験記コンクール
【一ツ橋文芸教育振興会賞】
 

 山に魅せられて
静岡県立掛川西高等学校 2年  松下 ひかり 

 青い雲海と空の境が徐々に白み始めた。朝日だ。力強く、それでいて優しい光が辺りを包む。振り返ると、朝日に照らされた北岳がその秀麗さに輪をかけて、神々しく見えた。目には見えないが、何か強い力を感じた。辺りは静寂に支配されていたが、確かな山の鼓動が、澄みきった空気を通して私に届いた。あの人も、この鼓動を聞いただろうか。
 八月十一日、カレンダーの数字は赤い。祝日「山の日」である。何でも、山の恩恵に感謝し自然に親しむ日なのだそうだ。そうでなくとも最近の登山ブーム、夏山は登山者で大賑いだろう。そう言う私も、四年前から山に魅せられた一登山者ではあるのだが。
 登山は日常生活を忘れさせてくれる。ただひたすら、黙々と登る。父と二人、歩くことに集中するから、お互い無口だ。余分なことを考えている暇はない。登山はいつでも危険と隣合わせだから。私は多分、そんなふうに日常から離れることに惹かれていたのだろう。あの人、この作品の主人公である加藤文太郎はどうだっただろうか。彼は「なぜ山に登るのか」という問いの答えを探すために山に登っていた。山が好きだというだけでは言いきれないほどの異常な執着心。命まで賭けた山という存在は、彼の中で、愛する妻や我が子の存在よりも勝っていた。そこまで彼を山に惹きつけたもの、それは、孤独との闘いの先にある自己の成長であった。
 今まで私は、孤独を誤解していた。一人でいることが楽で、好きだった私は、自分を孤独な人間だと勝手に思い込んでいた。しかし彼が冬山で経験する本当の孤独を知ってから私は決して孤独ではないと気づいた。私の側には、頼れる人がいた。山では父が、学校では友人もいた。それが何よりの証拠であり、彼の冬山山行にないものだった。
 「単独行の加藤文太郎」これは彼の愛称であり、彼にパーティーを組ませなかったレッテルでもある。夏山は良かった。美しいお花畑や木々の緑、野生動物が彼の孤独を癒した。しかし冬山は違った。色彩のない、ただ、ただ白い世界で、寒さよりも孤独が彼を苦しめた。冬山という死に近い場所で、頼れるのは自分だけだった。彼は孤独と闘いながら、幾度となく人を求めた。だが単独で冬山に挑む彼の非常識な山行は、多くのパーティーに拒絶された。彼はいつも、孤独に打ち勝とうとする心と、人を求める心との間で葛藤した。
 彼が山で孤独を感じるように、私も山で寂しさを感じたことがある。日常から離れたいという思いで山に登っても、山頂で、あの美しさや雄大さに触れてしまうと、ちっぽけな自分を思い知らされるのだ。人間の力など到底及ばないものへの畏敬の念は、日常を懐しむ思いに変わる。大自然から目を逸らすのだ。山々の果てにあるはずの自分の家を思う。学校を思う。家族を、友人を思う。山とは人間界の中にあるようで、ないようだ。山で感じる孤独や寂しさは、異世界に来てしまった人間に共通のものなのかもしれない。だが、私が感じた寂しさと、彼の感じた孤独には、天と地ほどの差があることは明確だ。
 一方で、孤独は彼の山行を成功に導いた。頼れる人はいない。信じられるのは自分だけだ。一人だという責任が彼を守った。どんなに困難な状況に追い込まれても、彼は生還した。様々な困難を乗り越え、生きていく力を彼は山で養った。豊富な経験に基づく自信は彼を人間として成長させた。孤独との闘いは苦しいものだが、その先には自己の成長があった。貪欲に限界を知らず、自己の成長を求め続ける。冬山の美しさ、そして厳しさは、彼の要求に十分に応えた。彼が山に惹かれ、命を賭けてまで求めたものは、山そのものではなく、登山という行為の中にあるものだったのだ。
 私は今まで、一時的に日常を忘れるために山に登ってきた。それで満足だった。しかし今夏の北岳への登頂を経て、少なからず自己の成長を感じた今は違う。孤独と闘ったわけではないが、二日目の行程で、一日に二つの山を越え、更に二千メートル以上も下るという困難を成し遂げた。解決すべき課題もあるが、今回の経験は自信となって、私の体と記憶に刻みつけられた。
 下山後の車の中、高揚感の抜け切らない私は、父に今後の山行の話を持ちかけた。すると父は、しみじみと、こう言った。
 「俺も後、何年登れるか分からんからな。」何年後になるか分からない。しかし、確実に私は一人で登山をすることになるだろう。そのとき、加藤文太郎のように、誰にも頼らず自分を信じ続けられるか。今のままの自分では到底無理だ。だが、諦めるつもりはない。まずは日常生活で、自分に責任を持ち、人に頼ることをやめる。私は目の前に伸びる登山道を一歩一歩踏み締めて歩いていく。加藤文太郎、あの人の背中を追って。

体験書籍 
『孤高の人』新田次郎・著 


BACK
 
(c)SHUEISHA Inc. All rights reserved.