第36回全国高校生読書体験記コンクール
【一ツ橋文芸教育振興会賞】
 

 「死」によっても失われないもの
宮崎県立宮崎西高等学校 1年  増田 悠斗 

 私は母の卵焼きが大好きだ。毎日、お弁当に入っている。だしが利いていて、甘めの卵焼きである。母はこの卵焼きの味付けを、幼い頃一緒に暮らしていた祖母、私の曾祖母に教わったそうだ。曾祖母は、私が生まれる前にはすでに亡くなっていた。だから、曾祖母の顔は、仏壇に飾ってある写真のみでしか知らない。ふくよかで優しい笑顔である。私は会ったこともない曾祖母の味が大好きだということになる。
 人間、いや、生きているものはみな、この世に生まれてきた以上は「死」へと向かって進んでいる。誰にでも必ず訪れるものである。しかし、分かっていても、それはあまりにも漠然として恐ろしく、考えることを無意識に避けてしまう。だから私は「死」について深く考えたことはない。この本は私に「死」によって失ってしまうものと、それでもなお生き続けるものについて、考えるきっかけを作ってくれた。
 この本に登場する三人の少年。ある夏、少年のひとりの祖母が亡くなったことをきっかけに、「死」に対して興味を持ち始める。それはかなり変わったもので、「人の死ぬ瞬間を見てみたい」という好奇心であった。そうして少年たちは、町外れにひとりで、生ける屍のように暮らすおじいさんの死ぬ瞬間を見るために、毎日、観察するようになる。悪趣味であり、ただの好奇心としては片付けられない不謹慎な行動である。おじいさんは、観察されていることに気付き、少年たちに対して嫌悪感を露にする。しかし、最初は怒っていたおじいさんは、少年たちに少しずつ心を開いていく。きっと、ひとりで話し相手もおらず寂しかったのだろう。少年たちの動機は、おじいさんの死ぬ瞬間を見てみたいという不純なものであったが、おじいさんとしては自分に興味を持ってくれたことが嬉しかったに違いない。
 少年たちはおじいさんと過ごすことにより、包丁の使い方や、ペンキの塗り方、庭の手入れなど、様々なことを教わり習得していく。しかし、この交流は長くは続かなかった。生きる屍状態から元気を取り戻しつつあったおじいさんであったが、少年たちが四日間のサッカー合宿に行っている間に眠るように亡くなってしまう。おじいさんは、図らずも、「死」について知りたがっていた少年たちに、身をもってそれを教えた形になった。そして私にも、「死」について考えるきっかけを与えてくれた。
 死をもって、人間の人生は終わる。最後は骨だけとなり、この世には存在しないものになってしまう。しかし、人間が生きている間に残したものは、世の中に存在し続ける。その人が作った作品だったり、功績だったり、または教え伝えた事であったり。おじいさんはそんな「死」によっても失われないものを教えてくれたのだ。その教えられた「こと」が生きている人たちに幸せを与えたり、人生の標となるならば、「死」をもって人間の人生は終わりとは言えないのである。実体を失っただけで、ひとりの人生は、その人に関わった者たちの人生に引き継がれていく。
 母の作る卵焼きがまさしくそうだ。この卵焼きは、今は亡き曾祖母から引き継がれているものだ。曾祖母が生きていた頃には、生まれていなかった私を満足させ、幸せにしてくれている。曾祖母の卵焼きの味は、確実に今、この世に存在しているのだ。曾祖母の人生は決して終わっていない。この本を読むまでは、このような考えに及ぶことは一切なかった。「死」とはすべての終わりを意味し、恐ろしいものと思っていた私にとって、「死」によっても失われないものを見つけたことは、大きな希望だ。
 私も一生懸命に生きて、何かを残していきたい。将来の夢も見えてきた。私の知識や経験を教え伝えることができる教師という職業がそれだ。子どもたちに勉強を教えることはもちろんだが、おじいさんのように、逞しく生きていくための術を伝えていけるような教師が理想である。
 私が小学校一年生の頃、担任だった先生から贈られた色紙が今も机の前に貼ってある。それには、「苦しい時こそ笑顔」と書かれている。この言葉は、私が成長するにつれて心に響くようになってきた。この色紙をもらった当時は意味をよく理解できなかったが、今なら分かる。きっと、これから、悩んで辛い時、私を奮い立たせてくれる言葉になるだろう。このように、私も子どもたちの心にいつまでも存在できる教師になりたい。
 まずは、一生懸命に生きよう。一度きりの人生だから、後世に何かを残したいという気迫で夢に向かって努力していきたい。母が曾祖母から引き継いだ甘い卵焼きを食べ、それを力に変えて。



体験書籍 
『夏の庭─The Friends─』湯本香樹実・著 


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